いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

「あの日」について考えるため、仙台の「てつがくカフェ」へ

3月。しかも、10周年。

岩手県に住む私(=このブログの管理人)は、3.11のことを考えずにはいられません。

(逆に「忘れたい」という思いを抱いている方もいらっしゃるかもしれませんが)

 

そこで、「てつがくカフェ@せんだい」さんと「せんだいメディアテーク」さんが

協働で主催するてつがくカフェに参加してきました。

(オンライン開催でした。)

 


今回のテーマは「〈メモリアル〉を考える」。

正直、HPで最初に見た時は「これで哲学的な対話になるのか?」と

思っていました。

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しかし、そこは「てつがくカフェ」。やはり興味深い対話となりました。

以下、簡単ですが、 そのてつがくカフェのレポートです。

 

なお毎回述べていることで、

このブログをご覧頂いている方は「もういいよ…」と思われるかもしれませんが、

以下は私個人の主観的な視点によるものです。

他の参加者の方が今回の「てつがくカフェ」を

どう捉えていらっしゃったかは分かりません。

 

まずは「メモリアル」について自由に参加者の方が思うことを話す、

という段階から対話開始。

参加者になると黙っていられない(苦笑)私が、口火を切りました。

「『メモリアル』というと、単に記憶に関係することだけでなく、

プラスのイメージがある。例えば結婚記念日とか」

という趣旨の発言をしました。

 

しかし、他の方はやはり震災のことが念頭にあったようで、

「むしろネガティブなイメージがある。追悼とか」

という 趣旨のご発言などがありました。

 

ちなみに私は震災当時、岩手とは全然違うところにおり 

被災者でもなければ、被災者の方とつながりがあるわけでもありません。

その辺りのことが、他の参加者の方との発言の違いに現れていたのかも。

(この辺り、私がもう少し部外者として振る舞ってみても良かったのかもしれませんが、

震災について考える機会だと思って控えました。

てつがくカフェで空気読んじゃうのもアレなんですが。)

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その他に印象に残っている発言として、

「メモリアルというのは、その出来事についての’自分の立ち位置’を考えることではないのか」というようなものがありました。

 

自分の立ち位置…震災について考えるなどと言いながら、

正直私は「自分の立ち位置」に関しては考えていませんでした。

3.11について毎年何かしら思うことはあるのですが、

「被災者の方は今も大変なんだろうなぁ~」位のことであって、

「’自分自身が’震災とどう向き合うか」という視点に欠けていることに気づかされました。

 

その後、前段階の自由な発言の中から「キーワード」を挙げる、

という段階に移行しました。

出てきたキーワードとしては、

「 考えるためのメモリアル」

「当事者性」

集合的記憶の実体化したもの」

「軽さ/重さ(当事者性の高さ低さ、アクセスのしやすさ)」

「共有」

「確認」

「時間経過によって変わるメモリアルの意味」等でした。

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次に、これらのキーワードから「問い」を立てるという段階に移行しました。

この「問い」をお土産として参加者の皆さんに持って帰ってもらう、というのが

「てつがくカフェ@せんだい」さんの狙いだそうです。

ここが、哲学という観点からは一番大切なことだと思うのですが、

一番大変だった…。

 

私がキーワード+それらに関して他の方に質問した上で立てた問いは、

「時間が奪うものは何か?」

「分かち合うとはどういうことか?」でした。

後者は、ファシリテーターの方からの問いかけによって、 

「他者と痛みを分かち合うとはどういうことか?」に変えました。

 

後者の問いには、私の専攻(臨床心理学)による関心が現れていたかもしれません。

どうすれば、痛みを抱えている人と関係を築く中で、

その痛み少しでも和らげることができるのか。

あるいは、その痛み自体は変わらなくても、

「分かち合っている人がいる」という感覚があれば、

被災者や障がい者などの方々の心に何かしらの良い変化が生まれるのか…。

これは、この先もずっと考えていかなければならない問題だと思いました。

 

哲学カフェが終わった後に、少しだけアフタートークをしたのですが、

その中での主催者の方のご発言で印象に残ったことが、以下。

 

「被災した方とそうでない方が集まると、ロジカルな議論はどうしても難しいかもしれない。けれど、双方が同じ席について2時間程の時間を共にする、

そこに肯定的な意味があるのではないか」

 

その「意味」とは一体どのようなものなのか?

これは直感ですが、頭の中だけで考えて出てくるものではなく、

実践の中でしか明らかにできないことなのでは、と思いました。

 

いわて哲学カフェでももう少し震災を直接的に扱うか否か…?

それこそ私が今後臨床心理士の資格を取り、

臨床的な配慮が出来るようになれば、可能性が出てくるかもしれませんが、

それはまだ分かりません。

というか、安易に「やります!」と宣言できるだけの自信は今は持てません。

 

ただ、いつかおこなってみたいという気持ちだけは、

今回仙台のてつがくカフェさんに参加させて頂いて、強くなりました。

 

以上になります。

最後までお読み頂いた方、有難うございました。