いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

「ことばにできないこと」はことばにできている?ーーー第7回「いわて哲学カフェ」のレポート

今回のいわて哲学カフェ(2020/03/22)は、「特別版」でした。

第一回目でも進行役を務めて頂いた森本誠一さん(※1)にお越し頂いての

開催だったためです。

 

経験を重ねた進行役の方をお招きしての「哲学対話」。

そのため、もっと大々的に宣伝したかったのですが、

周知の通り生憎の状況となってしまい…。

‘それなり’の宣伝に控えていました。

正直、5,6人位集まって頂ければ御の字かな、と。

 

ところが、予想に反して当日の申し込みが重なりました。

蓋を開けてみれば森本さん、受付等色々ご協力頂いた方、そして私を含むと

総勢16名(!)での哲学対話となりました。

(内、初参加は7名)

 

以下、第7回いわて哲学カフェの簡単なレポートです。

 

場所は、岩手県公会堂の11号室でした。

その日たまたま別の部屋でコンサートが開かれていたようでした。

そのため、時折「あなたの愛が~~~~」等の歌声が響いてくるという

変わった趣向の(?)哲学カフェとなりました。

 

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今回のテーマは「ことばにできないこととは?」。

‘3月に岩手で行う哲学対話’、ということで

私は震災に関連するテーマを取り扱ってみたいと考えていました。

ですが森本さんのご意見もあり

(運営側が対話を方向づけるべきではないことや、

震災を正面から取り上げることの危うさ等)

震災の話も出てくる‘可能性のある‘テーマとして、

上記を取り上げる事となりました。

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さて、どんな対話が行われたのか?

普段のレポートの中では、

「対話の中の論点について、主なものを列挙する」ということをしています。

ですが今回、部屋の換気等で私(=主催者兼ブログの管理者)がちょこまかと

動き回っており、対話の流れが追えていない部分が多々あります。

そこで、手元のメモに残っている事柄と、

そこから考えたことを少しだけ書いておきます。

(例のごとくですが、メモがあったとしても

以下は私の記憶と解釈に基づきます。

他の参加者の方とはまた違うはず)

 

まず、テーマに関して

「そもそもことばとは何か?」という問いが提示されました。

私は「文法などのルールによって使用される記号の一つ」だと

思っていたのですが、「ダンスなど、あらゆる表現行為」を

「ことば」として捉える方も。

 

「表現の手段」としては、ことばだけでなく「間」や「表情」なども

取り上げられます。

そういったあらゆる表現手段を「ことば」に含めるとすれば、

表現できないことはないのではないか、と言う意見もありました。

 

さらに、「『ことばにできないこと』と言うけれど、

そんな風に表現した時点で、ことばになっているのでは?」

というご意見も。

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(写真の会場がToastになってますが、実際は公会堂です。) 

 

この問いに関する、私の意見は以下。

「上記の意見も理解できる。

確かに、 『ことばにできない』などとことばにしている時点で、

『ことばになっている』と言うこともできる。

だけど問題は、 ‘それでもなぜ’『ことばにできない』などと

口にする事があるのか、ということでは?」

つまり、

「ことばにできない」と言う時、

発話者は‘何が’できないと思っているのか?

 

これらの疑問に関して、私の気になった意見が以下。

「デリケートなことだから、言葉にしたくない。

言葉にしてしまえば、何かが損なわれている気がする」という概要のもの。

 

「ことばにできない」という時、

話者が望んでいるのは、 この何かを‘損なわずに’済む事。

では、その「何か」とは何でしょうか。

単に「表現したいこと」か?

だけど、それならできるだけおおざっぱな表現をしておけば事足りるはず。

雑な例ですが、

大切な誰かを亡くした方がいたとして、

辛さ、悲しさ、残された事への憤りetc.があったとします。

その感情を表現したければ、

「色々と複雑な気持ち」とでも言っておけば、

‘取りこぼし’はない。

だけど、そんな風に言ってしまう事によってこそ、

「何かが損なわれる」感覚が生じるのではないでしょうか。

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単に、「表現したいこと」を‘包含している’ことばでは駄目。

「表現したいこと」に‘ふさわしい’ことばを見つけなければならない。

そしてそれができた時、「何かが損なわれる」感覚を覚えずに済む。

こうなると、何だかことばを用いる事は、

単なる情報処理‘以上の’意味を持っている気がしてくる。

 

では、「表現したいこと」に対して‘ことばがふさわしい’とはどういう事か?

 

…混乱してきたので、ここまでにします。

ただしこんな風に、哲学カフェの中で出会った言葉を持ち帰り、

対話が終わった後も折に触れて考える事が大事であると、

物の本には書かれています。

 

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それ以外にも、個人的に気になったご意見はいろいろあります。

その中で、テーマに関するものではないものの、

「哲学カフェ」のあり方に関し少し気になったご意見が、以下。

「この場にいると、‘正しい’ことを言わなければいけない気がする。

間違ったこと言っちゃいけないのでは、と思う」

 

ここで言う「正しい」とは何なのか?

論理的整合性?

意見の‘真面目さ’?

あるいは、 ‘他の人に批判されたり笑われたりしないような’事?

 

そして、「正しいことを言わなきゃ」というプレッシャーは、

「哲学カフェ」の場でのみ感じることなのでしょうか?

それとも‘見かけ上’似たような場所、

例えば、学級会・PTAの会議・町内会etc.でも感じるものなのでしょうか?

後者なら、それはなぜか?

そのプレッシャーの源は一体なんなのでしょうか…?

 

ともあれ私としては、ルールの範囲内において、

出来る限り自由に発言して頂きたいと思っております。

たとえそれが哲学カフェの場‘以外では’正しくない事であったとしても、

参加者の方が真剣に考えた事や、

あるいは、ご自身の‘実感として’正しいと思える事については

遠慮なく述べて頂きたいです。

そして、 ‘それができること’が

「哲学カフェ」を単なるおしゃべりとはまた‘別の’場にしていく要因の一つでは…

と考えております。

 

今回の哲学カフェの最後でもお話ししましたが、

森本さんのように哲学を専門に修めた方に来て頂ける機会は貴重です。

ですが、それが「哲学カフェ」の本質か、と言うとそうではないはず。

あくまでも、「参加者の皆さんで対話すること」こそが重要、だと

少なくとも私は考えております。

今後も「いわて哲学カフェ」を出来る限り継続してまいりますので、

ご関心のある方は、機会があれば是非。

 

それでは、ご参加頂いた方、

最後までこの記事をお読み頂いた方、

有難うございました。

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※1 ご専門は哲学、倫理学。大学等で非常勤講師をしていらっしゃいます。

詳しくは☞森本誠一のホームページ