いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

「役立たず」の考えていること―――第8回、いわて哲学カフェのレポート

「もう開催しないのではないかと思っておりました。」

 

…ですよねー(苦笑)

上記は、今回の開催についてメールをお送りした方から

頂いたお言葉です。

 

しかし、別の記事でも書いた通り、主催者にやめるつもりはさらさらなく、

単に時間がなかっただけです。開催したいとは思っておりました。

 

というわけで、不死鳥の如く(?)蘇ってきました、

いわて哲学カフェ、第8回目のレポートです。

 

「開催する」とは言ってもこのコロナ禍ですから、いきなり対面はまずいと思い、

今回はオンラインでの開催としました。

オンラインなら、森本さん(下記※1参照)に進行役をお願いできるのでは?と思い、

連絡してみたところ、二つ返事で快諾して頂いたため、

いわて哲学カフェ初のオンライン開催となりました。

 

とは言ってもまぁ、ほとんどの参加者の方は岩手県の方か、

森本さんの哲学カフェに参加している関西の方位だろう、と思って告知を始めた所…

 

「え、なんで?この県から⁇」

 

というお申し込みが続き…オンラインってやっぱりすごいですね。

今回10名の方に参加して頂きましたが、

本州各地からのご参加でした。

(逆に、東北からのお申し込みが 少ないという謎の事態に…)

 

また今回の開催で、今まで複数回参加して頂いていた方が

実は 県外(!)から足を運んでくださっていたことが発覚し…

いや、本当にありがとうございます。恐縮です。

 

前置きはこの位にして、今回のテーマは「『役に立つ』とはどういうことか?」

でした。さて、どのような対話となったのか?

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いつもの通りですが、以下は私の主観を通してのレポートです。

(他の参加者の方と見解が合わない部分も多々あるはず)

また、レポートの中で取りこぼすご意見もあります。

レポートの中に出てこない興味深いご意見も多々あった、

ということをご了承下さい。

 

それでは、ようやく本編です。対話の中身について簡単にご報告します。

今回参加されなかった方で、このブログをご覧の方ならどのように考えるでしょうか?

 

まずは、 「役に立つ」といっても、人の役に立つ、自分の役に立つ、社会の役に立つ…など、「どの対象に関して役に立つか」で、その質は異なるのではないか、というご意見が出されました。さらに、「『何が』役に立つのか」ということも問題となるのではないか、というご意見も。

確かに、「ある人物が役に立つ」のと、「文房具が役に立つ」とでは、ニュアンスが違う気がしますが、ブログをご覧の方ならどう思われますか?

 

関連することとして、「人」に対して「役に立つ」という言葉を当てはめることの暴力性のようなことも問題として提起されました。 確かに、人を「道具」としてみなす感じ、ありますからね。「人材」という言葉に馴染めない、というご意見も。それと関連して、「本来はある『行動』が’役に立っている’のに、それを『人』と混同するから、『人材』なんて言葉が生まれてくるんじゃないのか」というようなお話もありました。

 

「役に立つ」ということは、「目的に対して、手段として機能している、ということではないか」という趣旨のご発言もありました。これに対し、「目的と手段とは循環しているのではないか」「『目的』がなくても、『役に立つ』という場合はないのか」というようなご意見も。さらに、「道具は何のために使われるかが決まっているが、一方で人間は何のために生きるのかが決まっていない 。それが、人に対して「役に立つ」という言葉を使うことへの違和感の要因ではないか」という様なご発言もありました。

( 哲学の本をお読みになっている方は、「アレ」を思い浮かべることでしょう。

私も無駄にたくさん頷きまくっていました(笑))

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また、ある人にとっては役に立っていても、 

ある人にとってはむしろ積極的に邪魔になっている、ということもあるのではないか、

というご意見も(これは森本さんのものだったような気が)。

例えば、健常者の人にとっては、エレベーターを待つ時間がもったいないため、

階段はある程度役に立つものであるが、

一方で、車椅子の方にとっては全く機能していない、というようなこと(だと私は理解しました)。冒頭のご意見と繋がるのではないでしょうか。

 

さらに、「ボランティアをしていたが、結局自己満足のような気がして辞めた」というご意見も。それに対して森本さんが、「たとえ自己満足であったとしても、人の役に立つということはあるのではないか。「自己満足」と、「人の役に立つ」ということは別の次元ではないか」というような趣旨のご発言を。

 

他にも、「助けてしまうことで、かえって他者の自立を妨げてしまうこともあるのではないか」「赤ちゃんが微笑んでいるだけで、他者を癒すことができる。それは、『役に立つ』ということとは少し違うが、価値のあることではないか」等々、色々興味深いご意見が。

 

とても紙幅の関係で全てをあげることはできませんが、上記のような論点が提示されました。ブログをご覧の方ならどうお考えになりますか?

 

最後に、手前味噌で恐縮ですが、私の発言で妙に受けの良かった(と私が勝手に思い込んでいる)エピソードを取り上げておきます。ブログをご覧の方なら以下の問いについてどうお答えになりますか?

 

私が、とある機会に車いすの方をお見送りした際のお話です。

その方は教員のようなお立場の方で、生徒さんの付き添いで、

私のパート先にいらしていました。

年齢も私より結構上の方でした。

お見送りの際の位置関係は以下のような感じ☟

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車椅子の方であったことと狭い玄関であったことから、

扉を開けるのにご苦労なさっていました。

それを見た私は一瞬、「あ、手を貸さなきゃ」と思いました。

 

が、私は結局何もせず、ただご挨拶だけしてお見送りしました。

車椅子の方がご苦労なさっていたのに、そばで突っ立っていただけ。

 

なぜかというと、以下のような思いが頭の中にあったからです。

・確かに苦労はしているが、扉を開けることはできそう。

・その方は生徒さんの付き添いでそのパート先に来ていただけで、

別に支援を求めてきたわけではない。

・(これが私にとって一番大きな理由だったのですが)

ここで私が手を貸すと、その方が恥をかくのではないか?

最悪、傷つけてしまうのではないか?

 

大体このような理由から、手を貸さなかったのです。

この場合、私は「役立たず」というそしりを受けるべきでしょうか?

 

対話の中での反応は、概ね好意的ものでした。

ただそれは、私が何を考えていたかをその場でお話ししたからではないか、

とも思います。

 

例えば、街角で二人の青年を見かけたとして、

ブログをご覧の方ならどちらに好感を抱くでしょうか。

a,車椅子の方のために、ドアを押さえてあげている青年。

b,車椅子の方がドアを開けるのに苦労しているのに、

そばでただ突っ立っているだけの青年。

 

どうでしょう?どちらの青年の方が好ましいでしょうか?

 

レポートは以上となります。

次回は…一体いつになるのかな(苦笑)

でも、出来る限りは続けていくつもりです。

また、他の記事でご紹介しているように、

哲学カフェにはいろいろな可能性がありますので、

そういったことにチャレンジしてみたいという気持ちもあります👇

 

philosophycafeinmorioka.hatenablog.com

 

もし、ご関心をお寄せいただける方、

また新年度で、今までやったことのないことをやってみようと思われている方、

ぜひ一度「いわて哲学カフェ」に参加してみてください。

 

以上です。

最後までお読み頂いた方、ありがとうございました。 

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(お一人先に抜けられたので、画像では9名の方になっています。)

 

※1 ご専門は哲学、倫理学。大学等で非常勤講師をしていらっしゃいます。

詳しくは☞Mrmts wiki

(上記Webページは改修中です)