いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

行きたい本屋が休みで良かった―——「てつがくカフェ」の望ましいあり方について

今日、ある本屋に向かった。

前から行くのを楽しみにしていた本屋だったので

ものすごくワクワクして行った。

 

 

 

…臨時休業だった。 

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SNSでそんな情報流してなかったやんけ!!」と憤りながら、

そのまま帰るのも勿体ないと思い、

ある飲食店へ向かった。

 

「てつがくカフェ」を開催させてもらえないか、と

打診していた飲食店だ。

 

その時間帯、ちょうど私以外誰も客がいなかったので

(午後から雨が降るという予報だったので、

恐らく外出を控えている人が多かったのだろう、と推測)

店員さんの女性の方と結構長くお話しさせて頂いた。

 

その方は、現在妊娠中らしかった。

「おめでとうございます」と祝福の言葉を述べ、

「でも、今コロナで大変ですよね。妊婦さんは余計感染できないし」

などという話をした。

妊婦さんでもワクチンがどうやら打てるらしい、という話を初めて伺った。

 

…ここらで、

「突然こいつは何を言い出し始めたんだ?『てつがくカフェ』関係ないじゃん」

と疑問を持たれた方にお答えしておきます。

 

私は、コロナで飲食店の方が困っている、あるいは、

学生さんが困っている、ということについては

思いを寄せていましたが、

「妊婦さん」のことについては、全く思いを寄せていませんでした。

もちろん、ニュースなどで見かけたことがないわけではありません。

しかし特段、「妊婦さん」のことを意識したことはありませんでした。

 

おなかの中の赤ちゃんのためにも、自分が感染するわけにはいかない。

生活のために仕事をしつつ、感染には気を付けなければならない。

しかも、無事に出産できたとしても、「可愛いわが子」をハグすることも

ためらわれる、という状況。

保育園に行き始めたらどうなるのか?etc.

 

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そう考えると、何とも言えない感慨が私の中に生じてきました。

そんな状況におられる方がいるのに、

(っていうか、私の大学院の専攻ってまさしくそういう方に

思いを馳せるべき領域なのに。。)

全く思いが及んでいなかったことへ、勝手に感じる申し訳なさ、とか。

あるいは、目の前に可愛い赤ちゃんがいるのにハグできない、という状況を

リアルに想像した時の切なさ、とか。

 

「てつがくカフェ」のアンケートをとると、

ご感想の中によく「色々な意見に触れられて良かった」と

いうものがあります。

ただ、それを見た私は、主催者として微妙な気持ちでした。

「色々な意見に触れるのはいいんだけど、

そこをもうちょっと掘り下げることができるのではないか?

例えば、相手と自分の意見が違うのだとすれば、

なぜ自分はその意見なのかを考えてみる、とか…」

 

要するに、主催者個人の勝手な好みとして、

もう少し「理屈で考えを深める」作業を行っていただければ…

と思っていたのです。

 

 

ですが。

 

 

上記の店員さんとお話しさせて頂いた時、

私の中に生まれた感慨について、

私は価値のないものだとは思いませんでした。

その感慨は、立論にはなっていない。

つまり、

「Aと主張する。なぜならば、Bだからである。」というような

形での言語化はできていません。

 

では、その感慨は、哲学にとって「無意味」なものなのか?

いや、そうではないはずだ。

むしろ’その感慨によってこそ’

哲学的に意味のある思索が生み出されるのではないか?

 

自分の想像が及んでいなかった「他者」と出会うことで、

’否が応でも’考えざるを得なくなる。

自分の想像の及ばない他者と出会って、ある感慨が生じる。

そこで、

「なぜ自分はそれに気付くことができなかったのか?

そういう人たちはどういう思いを抱えているのか?

そういう人たちのために、自分は何ができるのか?」

という疑問が、「理屈」ではなく「思い」というレベルで生じる。

 

たとえ論理的な議論にならなくても、

そういう「思い」を抱くことができる「場」であるならば、

「てつがくカフェ」は十分成功してるんじゃないか?

(哲学の本をお読みになっている方であれば、

「あの哲学者の言葉」を思い浮かべることでしょう)

そんなことを考えました。

 

上記の様に、「色々な意見に触れられて良かった」という

ご感想を述べられていた方も、

ひょっとしてそういうことが言いたかったのではないか、と。

もしそうであるとするならば、

主催者としてお恥ずかしい限りです。

 

お目当ての本屋は休みでしたが。。

今日出かけて良かった、と思いました。