「考えるテーブル」へ―――仙台の哲学カフェに行ってきた(下)
まずはファシリテーターの方から哲学カフェの説明があります。
(ex.他者を鏡として自分の考えを深める、
結論を出すのではなく、考えるヒントを持ち帰ってもらうetc.)
その後、まずはテーマを決めるための話し合いが始まりました。
とりあえず先述の付箋にテーマを書き出した人が、
なぜそのテーマを上げたのかについて話をしていました。
最初の方のご意見は、「主観と客観」に関するもの。
「他人に話が通じない。それは、‘自分語で’喋ってしまっているためで…」
というような趣旨の内容でした。
ちなみに、参加者が多いせいか、話すときは各机に置いてあるマイクを使います。
私も3番目位で発言したのですが、
何だか妙に緊張し、マイクを使っているのに
ボソボソとした喋り方となってしまい… 。
(「哲学カフェ初参加でも大丈夫!」などとこのブログに書いている当人が)
一方、他の参加者の方は堂々と発言されていらっしゃいました。
普段から参加なさってて慣れているのだろうか?
徐々に発言が「信じる」ということについて集まり始めたため、
この日のテーマは「信じる」に決定しました。
その後出てきた意見としては、
「信じるという事は、思考停止ではないか」
「信じて欲しい、信じたいというのは理屈じゃない」
「‘信じる’の条件とは何か。
誰かが話しているとき、その内容ではなく、
むしろ‘喋り方’(たどたどしい、等)で判断してしまう」etc.
印象的だったのが、意見が出てくること出てくること…。
あちらで話終えればすかさずこちらで話始める、
という感じになることもしばしばでした。
その意見をグラフィック(板書の担当)の方が
どんどんと書き出していく。
ファシリテーターの方も含め、関係者の皆さんは大変そう。
いきなり「信じるとは何か?」という問いについて
一人で答えを出せ、と言われても
(少なくともブログの管理人は)答えに詰まるので、
こんな風に次から次へと意見が出てくるのは、
「対話」を通して他者の意見に触発されているからなのか。
また、(私の記憶が確かなら)
‘途中から、通りすがりの人が’対話に加わって発言していました。
オープンスペース(壁で仕切られていない空間)であったため、
ああいうハプニング的な(?)ことも起こるのか、と。
それも取り込んで、対話は進みます。
一旦休憩を挟んだ後、
これまでの対話を踏まえた上で「信じる」に関しての「キーワード」を
挙げてみましょう、ということになり
以下のようなキーワードが出てきました(一部のみ抜粋)。
「安心、安全」
「憧れ」
「疑う」
「思考停止」
「言葉⇔沈黙、無言」
「預ける、任せる」
「肯定」
その後キーワードを踏まえながら対話が進み、
「この場での考えをまとめるために、
『信じる』ことについて一旦定義をしてみましょう」ということになりました。
ブログをご覧の方なら、「信じる」をどのように定義するでしょうか?
その哲学カフェでは、
「生きることと結びついた無条件の肯定である」という意見が出されました。
(ただし、この意見の発言者の方は‘この定義について、
他の方の意見も聞かせてほしい’と断っていましたが)
その後、この定義等についていくつかの発言があって、
終了の時間となりました。
私も二回発言しましたが、
もう三回ぐらい発言したかった(苦笑)。
哲学カフェが終わった後、
ファシリテーターの方や哲学カフェの関係者の方達と
少しだけお話をさせて頂きました。
「てつがくカフェ@せんだい」さんは、哲学カフェの進行の仕方について、
いわて哲学カフェとは別のスタンスのようです。
(’ざっくりと言えば’ですが、
いわて哲学カフェの方が相対的に放任主義(悪く言えば投げっぱなし)な様)
「いわて哲学カフェ」に参加したけどイマイチだった…という方が
いらっしゃっても、
どうか「哲学カフェ」そのものがイマイチ、とは思わずに!
別の記事でも書きましたが、
哲学カフェごとに進行の仕方や‘その場の空気感‘等は異なりますので、
もし岩手の方でお時間、ご予算に都合のつく方、
あるいは、仙台でのご用事の‘ついで’が可能という方は、
「てつがくカフェ@せんだい」さんの哲学カフェの方へもぜひ。
(もちろん、仙台や近隣の方も)
かなり長い記事となってしまいました…。
最後までお読み頂いた方、有難うございました。