いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

‘頑張って’生きるべきか?―――哲学カフェin盛岡‘by 筑波大学’(上)

盛岡に、他県からの‘出張’哲学カフェがやってきました。

2020/03/08(日)の、筑波大学による哲学カフェです。

 

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以前にも、立教大学の教授や東北文化学園大学の(当時の所属)の教授が

いらっしゃり、盛岡で哲学カフェをやったことがあるそうですが、

今回の哲学カフェでは筑波大学から准教授の方がいらっしゃいました。

(断りもせずに個人名をブログに載せるのは気が引けるので、

一応准教授の方の名前は伏せます。

気になる方はググってください。)

 

哲学カフェの告知のWebページには、大文字で「人生を楽しむ」とありました。

これは対話のテーマなのだろうか?

それとも哲学カフェのコンセプト?

いずれにせよ、浮世離れした問題を考えるというより、

参加者の実人生に‘還元して生かす’ことを大事にしている哲学カフェなのか?…

などと考えつつ、

すぐさま申し込む私(≒いわて哲学カフェの主催者)。

 

以下、筑波大学プレゼンツの哲学カフェに参加してみた、

私目線のレポートです。

筑波大学の哲学カフェは、その進め方が

いわて哲学カフェとは大分異なり「へぇ~こうするんだ」の連続でした。

 

開始時刻の5分前に会場に到着。

アイーナ4階のスタジオスペースです。

参加者の中で一番最後の到着になるかな、と思っていたら、

だだっ広い会場には円状に配置された二十脚ほどの椅子があるだけで、

関係者の方と思しき人3人以外、誰もいない。

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え…、皆コロナでキャンセルしちゃった?と

本気で心配になる私。

 

そこにいた関係者の方と思しき大学生(あるいは、院生さん?)の男性の方に

「あの~ここ、哲学カフェの会場…?」と声をかけると

着席するように促されました。

すると、その直後から他の参加者の方がいらっしゃり始め。

 

最終的に、筑波大学の准教授(=ファシリテーター)や学生さんも含めると、

計12,3名の参加者でした。

 

まずは、「チェック・イン」からスタート。

「自分がその場で呼んでほしい名前」と「今の気持ち」を参加者が述べます。

(準備ができた人から)

 

自分の下の名前を挙げている方が比較的多かったので、

私もそれを挙げました。

が、中には「キューピーちゃん」という名前を挙げる人も。

 

物の本によれば、哲学の一つの機能として、

「環境のコード(≒暗黙の規範や常識など)」に

自覚的になり、それを批判的に検討すること

(単に空気を読んで周りに合わせるのではなく、

その「空気」が何であるかを疑いつつ眺めてみること)

が挙げられるらしい。

とすると、「キューピーちゃん」と名乗った方の方が

ひょっとすると「哲学」が実践できているのかもしれません。

周りの出方を伺い、それに合わせた私は…。

 

「今の気持ち」について述べられたものとしては、

(全部は覚えていませんが)

「哲学カフェに参加するのが初めてで…」

「このような会場でやるのが初めてで…」

と言うような簡単なもの。

ちなみに、「いわて哲学カフェ」の参加者の方は一人もいらっしゃらず。

 

全員の「チェック・イン」が終わると、

付箋とマジックペン(好きな色を選ぶ)が全員に配られました。

「今考えたいことを付箋に書き出して下さい。」との事。

その後、全員分の付箋を衝立に張り出しました。

ここら辺は、メディアテーク(仙台)の哲学カフェと同じ。

 

philosophycafeinmorioka.hatenablog.com

 

 

今回出されたテーマは、

これについても記憶があいまいなのですが、

「不安」

「笑うのはどんな時?」

「命は何に使うべき?」

「ダイエット」

「恐れ」

「 ‘頑張って‘生きなくてはいけないのか?」

「世界は何でできているのか?」etc.

 

「世界は何でできているのか?」と言う壮大なテーマと

「ダイエット」という卑近なテーマが同じ俎上に並んでいるのが

非常に良い感じ。

フランス高級料理と駄菓子が同じテーブルに並べられている、的な。

 

多数決の結果、今回のテーマは

「 ‘頑張って‘生きなくてはいけないのか?」に決定しました。

(テーマ同士で重なりがあるので、

他のテーマを排除した訳ではないよう)

 

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(「頑張り」は生きることに必要か?)

 

次に、

現時点で「頑張って生きるべき、という意見に賛成するか否か?」について、

参加者の方に立場を決めてもらいます。

(私は「別に頑張って生きなくてもいい」という立場)

そして、 異なる立場の人同士が一緒になるように、

3,4人のグループに分かれます。

そして、グループ毎に5分間話し合い、

一応の合意形成を目指します。

 

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(当然ですが、イメージ画像)

 

私の参加したグループでは、以下のような意見が出ました。

(以下は、私の記憶と解釈に基づき、相当に端折って書きます。)

 

賛成側

 

「人間の本性として、楽に流れる傾向がある。

それゆえ、頑張って生きなければいけないと思う。

ただし、 ‘ねばならない‘という考え方はあまり好きじゃないが」

 

反対側

 

「やりたいこと」は、頑張らなくても自然にできる。

だから、頑張らなくてもいいのでは。

 

私(も、反対側)

 

「頑張って生きることの是非はともかくとして

‘ねばならない’が嫌い。

社会からの刷り込みと感じるから。」

 

気づいた方もいらっしゃると思いますが、

「ねばならない」への評価は、

賛成の方と私(反対側)で一緒でした。

二分法だと対立する立場でも、

話し合ってみると共通点が見つかることも。

逆に、同じ立場でも意見に違いがあったり。

こんな風に、「二分法による分断」が、

‘対話’を通してリセットされていく。

 

その後、賛成の方から

「そもそも頑張るってどういう意味だと思いますか?」と尋ねられました。

私は、「身体的・精神的にどこかに無理がかかっている状態」と答えました。

 

一方で、ファシリテーターの方からは、

「頑張っている、というのは誰が判断するのか?

周りから見ると『頑張っている』としても、

その人からすれば、たいして無理はしていないのかもしれない」

と言う意見が。

 

この後、すでに合意の形成されたグループの方が、

私のグループに加わりました。

 

(長くなったので、記事を分割します。

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