いわて哲学カフェ

「てつがく」することを「楽しむ」ために

「役立たず」の考えていること―――第8回、いわて哲学カフェのレポート

「もう開催しないのではないかと思っておりました。」

 

…ですよねー(苦笑)

上記は、今回の開催についてメールをお送りした方から

頂いたお言葉です。

 

しかし、別の記事でも書いた通り、主催者にやめるつもりはさらさらなく、

単に時間がなかっただけです。開催したいとは思っておりました。

 

というわけで、不死鳥の如く(?)蘇ってきました、

いわて哲学カフェ、第8回目のレポートです。

 

「開催する」とは言ってもこのコロナ禍ですから、いきなり対面はまずいと思い、

今回はオンラインでの開催としました。

オンラインなら、森本さん(下記※1参照)に進行役をお願いできるのでは?と思い、

連絡してみたところ、二つ返事で快諾して頂いたため、

いわて哲学カフェ初のオンライン開催となりました。

 

とは言ってもまぁ、ほとんどの参加者の方は岩手県の方か、

森本さんの哲学カフェに参加している関西の方位だろう、と思って告知を始めた所…

 

「え、なんで?この県から⁇」

 

というお申し込みが続き…オンラインってやっぱりすごいですね。

今回10名の方に参加して頂きましたが、

本州各地からのご参加でした。

(逆に、東北からのお申し込みが 少ないという謎の事態に…)

 

また今回の開催で、今まで複数回参加して頂いていた方が

実は 県外(!)から足を運んでくださっていたことが発覚し…

いや、本当にありがとうございます。恐縮です。

 

前置きはこの位にして、今回のテーマは「『役に立つ』とはどういうことか?」

でした。さて、どのような対話となったのか?

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いつもの通りですが、以下は私の主観を通してのレポートです。

(他の参加者の方と見解が合わない部分も多々あるはず)

また、レポートの中で取りこぼすご意見もあります。

レポートの中に出てこない興味深いご意見も多々あった、

ということをご了承下さい。

 

それでは、ようやく本編です。対話の中身について簡単にご報告します。

今回参加されなかった方で、このブログをご覧の方ならどのように考えるでしょうか?

 

まずは、 「役に立つ」といっても、人の役に立つ、自分の役に立つ、社会の役に立つ…など、「どの対象に関して役に立つか」で、その質は異なるのではないか、というご意見が出されました。さらに、「『何が』役に立つのか」ということも問題となるのではないか、というご意見も。

確かに、「ある人物が役に立つ」のと、「文房具が役に立つ」とでは、ニュアンスが違う気がしますが、ブログをご覧の方ならどう思われますか?

 

関連することとして、「人」に対して「役に立つ」という言葉を当てはめることの暴力性のようなことも問題として提起されました。 確かに、人を「道具」としてみなす感じ、ありますからね。「人材」という言葉に馴染めない、というご意見も。それと関連して、「本来はある『行動』が’役に立っている’のに、それを『人』と混同するから、『人材』なんて言葉が生まれてくるんじゃないのか」というようなお話もありました。

 

「役に立つ」ということは、「目的に対して、手段として機能している、ということではないか」という趣旨のご発言もありました。これに対し、「目的と手段とは循環しているのではないか」「『目的』がなくても、『役に立つ』という場合はないのか」というようなご意見も。さらに、「道具は何のために使われるかが決まっているが、一方で人間は何のために生きるのかが決まっていない 。それが、人に対して「役に立つ」という言葉を使うことへの違和感の要因ではないか」という様なご発言もありました。

( 哲学の本をお読みになっている方は、「アレ」を思い浮かべることでしょう。

私も無駄にたくさん頷きまくっていました(笑))

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また、ある人にとっては役に立っていても、 

ある人にとってはむしろ積極的に邪魔になっている、ということもあるのではないか、

というご意見も(これは森本さんのものだったような気が)。

例えば、健常者の人にとっては、エレベーターを待つ時間がもったいないため、

階段はある程度役に立つものであるが、

一方で、車椅子の方にとっては全く機能していない、というようなこと(だと私は理解しました)。冒頭のご意見と繋がるのではないでしょうか。

 

さらに、「ボランティアをしていたが、結局自己満足のような気がして辞めた」というご意見も。それに対して森本さんが、「たとえ自己満足であったとしても、人の役に立つということはあるのではないか。「自己満足」と、「人の役に立つ」ということは別の次元ではないか」というような趣旨のご発言を。

 

他にも、「助けてしまうことで、かえって他者の自立を妨げてしまうこともあるのではないか」「赤ちゃんが微笑んでいるだけで、他者を癒すことができる。それは、『役に立つ』ということとは少し違うが、価値のあることではないか」等々、色々興味深いご意見が。

 

とても紙幅の関係で全てをあげることはできませんが、上記のような論点が提示されました。ブログをご覧の方ならどうお考えになりますか?

 

最後に、手前味噌で恐縮ですが、私の発言で妙に受けの良かった(と私が勝手に思い込んでいる)エピソードを取り上げておきます。ブログをご覧の方なら以下の問いについてどうお答えになりますか?

 

私が、とある機会に車いすの方をお見送りした際のお話です。

その方は教員のようなお立場の方で、生徒さんの付き添いで、

私のパート先にいらしていました。

年齢も私より結構上の方でした。

お見送りの際の位置関係は以下のような感じ☟

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車椅子の方であったことと狭い玄関であったことから、

扉を開けるのにご苦労なさっていました。

それを見た私は一瞬、「あ、手を貸さなきゃ」と思いました。

 

が、私は結局何もせず、ただご挨拶だけしてお見送りしました。

車椅子の方がご苦労なさっていたのに、そばで突っ立っていただけ。

 

なぜかというと、以下のような思いが頭の中にあったからです。

・確かに苦労はしているが、扉を開けることはできそう。

・その方は生徒さんの付き添いでそのパート先に来ていただけで、

別に支援を求めてきたわけではない。

・(これが私にとって一番大きな理由だったのですが)

ここで私が手を貸すと、その方が恥をかくのではないか?

最悪、傷つけてしまうのではないか?

 

大体このような理由から、手を貸さなかったのです。

この場合、私は「役立たず」というそしりを受けるべきでしょうか?

 

対話の中での反応は、概ね好意的ものでした。

ただそれは、私が何を考えていたかをその場でお話ししたからではないか、

とも思います。

 

例えば、街角で二人の青年を見かけたとして、

ブログをご覧の方ならどちらに好感を抱くでしょうか。

a,車椅子の方のために、ドアを押さえてあげている青年。

b,車椅子の方がドアを開けるのに苦労しているのに、

そばでただ突っ立っているだけの青年。

 

どうでしょう?どちらの青年の方が好ましいでしょうか?

 

レポートは以上となります。

次回は…一体いつになるのかな(苦笑)

でも、出来る限りは続けていくつもりです。

また、他の記事でご紹介しているように、

哲学カフェにはいろいろな可能性がありますので、

そういったことにチャレンジしてみたいという気持ちもあります👇

 

philosophycafeinmorioka.hatenablog.com

 

もし、ご関心をお寄せいただける方、

また新年度で、今までやったことのないことをやってみようと思われている方、

ぜひ一度「いわて哲学カフェ」に参加してみてください。

 

以上です。

最後までお読み頂いた方、ありがとうございました。 

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(お一人先に抜けられたので、画像では9名の方になっています。)

 

※1 ご専門は哲学、倫理学。大学等で非常勤講師をしていらっしゃいます。

詳しくは☞Mrmts wiki

(上記Webページは改修中です)

「あの日」について考えるため、仙台の「てつがくカフェ」へ

3月。しかも、10周年。

岩手県に住む私(=このブログの管理人)は、3.11のことを考えずにはいられません。

(逆に「忘れたい」という思いを抱いている方もいらっしゃるかもしれませんが)

 

そこで、「てつがくカフェ@せんだい」さんと「せんだいメディアテーク」さんが

協働で主催するてつがくカフェに参加してきました。

(オンライン開催でした。)

 


今回のテーマは「〈メモリアル〉を考える」。

正直、HPで最初に見た時は「これで哲学的な対話になるのか?」と

思っていました。

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しかし、そこは「てつがくカフェ」。やはり興味深い対話となりました。

以下、簡単ですが、 そのてつがくカフェのレポートです。

 

なお毎回述べていることで、

このブログをご覧頂いている方は「もういいよ…」と思われるかもしれませんが、

以下は私個人の主観的な視点によるものです。

他の参加者の方が今回の「てつがくカフェ」を

どう捉えていらっしゃったかは分かりません。

 

まずは「メモリアル」について自由に参加者の方が思うことを話す、

という段階から対話開始。

参加者になると黙っていられない(苦笑)私が、口火を切りました。

「『メモリアル』というと、単に記憶に関係することだけでなく、

プラスのイメージがある。例えば結婚記念日とか」

という趣旨の発言をしました。

 

しかし、他の方はやはり震災のことが念頭にあったようで、

「むしろネガティブなイメージがある。追悼とか」

という 趣旨のご発言などがありました。

 

ちなみに私は震災当時、岩手とは全然違うところにおり 

被災者でもなければ、被災者の方とつながりがあるわけでもありません。

その辺りのことが、他の参加者の方との発言の違いに現れていたのかも。

(この辺り、私がもう少し部外者として振る舞ってみても良かったのかもしれませんが、

震災について考える機会だと思って控えました。

てつがくカフェで空気読んじゃうのもアレなんですが。)

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その他に印象に残っている発言として、

「メモリアルというのは、その出来事についての’自分の立ち位置’を考えることではないのか」というようなものがありました。

 

自分の立ち位置…震災について考えるなどと言いながら、

正直私は「自分の立ち位置」に関しては考えていませんでした。

3.11について毎年何かしら思うことはあるのですが、

「被災者の方は今も大変なんだろうなぁ~」位のことであって、

「’自分自身が’震災とどう向き合うか」という視点に欠けていることに気づかされました。

 

その後、前段階の自由な発言の中から「キーワード」を挙げる、

という段階に移行しました。

出てきたキーワードとしては、

「 考えるためのメモリアル」

「当事者性」

集合的記憶の実体化したもの」

「軽さ/重さ(当事者性の高さ低さ、アクセスのしやすさ)」

「共有」

「確認」

「時間経過によって変わるメモリアルの意味」等でした。

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次に、これらのキーワードから「問い」を立てるという段階に移行しました。

この「問い」をお土産として参加者の皆さんに持って帰ってもらう、というのが

「てつがくカフェ@せんだい」さんの狙いだそうです。

ここが、哲学という観点からは一番大切なことだと思うのですが、

一番大変だった…。

 

私がキーワード+それらに関して他の方に質問した上で立てた問いは、

「時間が奪うものは何か?」

「分かち合うとはどういうことか?」でした。

後者は、ファシリテーターの方からの問いかけによって、 

「他者と痛みを分かち合うとはどういうことか?」に変えました。

 

後者の問いには、私の専攻(臨床心理学)による関心が現れていたかもしれません。

どうすれば、痛みを抱えている人と関係を築く中で、

その痛み少しでも和らげることができるのか。

あるいは、その痛み自体は変わらなくても、

「分かち合っている人がいる」という感覚があれば、

被災者や障がい者などの方々の心に何かしらの良い変化が生まれるのか…。

これは、この先もずっと考えていかなければならない問題だと思いました。

 

哲学カフェが終わった後に、少しだけアフタートークをしたのですが、

その中での主催者の方のご発言で印象に残ったことが、以下。

 

「被災した方とそうでない方が集まると、ロジカルな議論はどうしても難しいかもしれない。けれど、双方が同じ席について2時間程の時間を共にする、

そこに肯定的な意味があるのではないか」

 

その「意味」とは一体どのようなものなのか?

これは直感ですが、頭の中だけで考えて出てくるものではなく、

実践の中でしか明らかにできないことなのでは、と思いました。

 

いわて哲学カフェでももう少し震災を直接的に扱うか否か…?

それこそ私が今後臨床心理士の資格を取り、

臨床的な配慮が出来るようになれば、可能性が出てくるかもしれませんが、

それはまだ分かりません。

というか、安易に「やります!」と宣言できるだけの自信は今は持てません。

 

ただ、いつかおこなってみたいという気持ちだけは、

今回仙台のてつがくカフェさんに参加させて頂いて、強くなりました。

 

以上になります。

最後までお読み頂いた方、有難うございました。

2021/3/27(土) 「いわて哲学カフェ」を開催致します。

※3/27(土)13:00をもって受付を締め切ろうと思います。

参加をご検討中の方いらっしゃいましたらご確認下さい。

もしZoomの使用に関してなどのご不安がございましたら、

お気軽に下記メールアドレスまでお問い合わせ下さい。

万が一、申込んだのに連絡がないという方は、

お手数ですが、下記の問い合わせメールアドレスまで、

その旨についてご一報願います。

 

※お申し込みはこのページ下部の「PassMarket」へのURLより

(ブログのトップページへ)

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                                主催:いわて哲学カフェ

              共催:PE班、中津ぱぶり家 (下記※1参照)        

 

 

スケジュール・お申込み方法は以下のとおりです。

(cf.「『いわて哲学カフェ』…って何?」という方へのご紹介 - てつがくカフェinMORIOKA )

 

■日時 2021/3/27(土) 14:00~16:00

■開催方法 Zoomでのオンライン開催です。お申込み頂いた方へ

      ご参加のためのZoomミーティングURLを

      メールでお送り致します。                     

参加費 500円(大学生以下300円)

※お申込み方法としてコンビニ決済を選択する場合、

手数料106円が生じます。

■定員:18名(先着順)※3/26(金)17:00時点で、

運営側を除き10名の方がご参加予定

■進行役:森本誠一(哲学者、大学等非常勤講師)

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cf.森本誠一のホームページ(改修中)

■対話テーマ:「役に立つ」とはどういうことか?

 cf.(「何…そのテーマ?」と思われた方へ、「てつがくカフェ」のテーマの注意点 - てつがくカフェinMORIOKA)

 

お申し込みについては「PassMarket」というサービスの

「チケットを申し込む」ボタンから宜しくお願い致します。

以下のURLから、「PassMarket」のイベントページへ飛びます。

お申し込みはこちら

 3/27(土)いわて哲学カフェ「『役に立つ』とはどういうことか?」 - パスマーケット (yahoo.co.jp)

 

cf.(プライバシーポリシー - てつがくカフェinMORIOKA

 

■■■■■■■■■■■■■■■注意事項■■■■■■■■■■■■■■■

※今回Zoomでの開催ですが、カメラはオンの状態でご参加下さい。

気になる方は、マスク着用での対応を宜しくお願い致します。

お申込み後の返金には対応致しかねます。ご了承下さい。

※決済方法として「PayPay残高払い」「クレジットカード」

「コンビニ決済」の三種類がありますが、以下にご注意下さい。

・「PayPay残高払い」の場合はYahoo! JAPAN IDとの連携が必要です。

・コンビニ決済を利用するにはYahoo! JAPAN IDでのログインが必要です。

チケット申し込み時にログインしていなかった場合は利用できません。

決済方法について、詳しくは以下をご覧下さい。

cf.(お支払い方法(購入者向け) (yahoo-net.jp)

 

Yahoo! JAPAN IDをお持ちでない方もいらっしゃると思いますが、

登録は無料です。詳しくは以下をご覧下さい。

Yahoo! JAPAN IDを登録するには (yahoo-net.jp)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 

 

お問い合わせはこちらのアドレスまで→nbsi178cas21@gmail.com

 タイトルに、「哲学カフェ、問い合わせ」と明記してください。

 

もし、「興味あるけど…なんか気が引ける」という方がいらっしゃれば

下記3つの記事をご参考までに↓

philosophycafeinmorioka.hatenablog.com

 

初参加のハードルについて、私の哲学カフェ初参加の時 - てつがくカフェinMORIOKA

 人見知りの方もご安心を、哲学カフェの基本的な流れのご紹介 - てつがくカフェinMORIOKA

 

※1共催者の情報

PE班について☟

cf.PE(パブリック・エンゲージメント)班ブログ | 新しい公共性のあり方について一緒に考えませんか?

中津ぱぶり家について☟

cf.中津ぱぶり家

お詫びとお知らせと

前回の「いわて哲学カフェ」から早くも一年近くになります。

この一年間ずっと哲学カフェを開かずにおりました。

 

なぜ開かなかったのか、といえば、

もちろんコロナウイルスのこともあるのですが、

私(≒このブログの管理人かつ 主催者)の大学院での勉強が

想像以上に忙しいものだったことに加え、

去年の夏頃から少し体調を崩してしまったからです。

 

その間、今までご参加になった方数名から「やりませんか」

「やらないんですか」というお声を頂き、

有難いと思いながらも結局開かずじまいでおりました。

大変申し訳ありません。

 

ただ、前回開催した際も念頭にあったことなのですが、

3月は「あの日」のこともあり、

(加えて今年は10周年と言うこともあり。

だからどうしたというご意見も見かけますが)

なんとか開催したいと考えております。

 

次回はオンライン形式での開催ですので、

今まで地理的にご参加が難しかった盛岡市近隣以外の岩手県の方や、

県外の方にもご参加可能です。

ないとは思いますが、海外からでも。

(以前参加させて頂いた別のオンライン哲学カフェでは、

一人いらっしゃいましたが。

国名は忘れましたが確か北欧にお住まいの方だったかと)

 

初のオンライン開催のため少々準備に手間取っております。

お待たせして申し訳ありませんが、

ご都合のよろしい方は、ぜひご参加を検討して下されば幸いです。

よろしくお願い致します。

「イタイ」とはどういうことか?ーーー東京の大学生さんが主体の哲学対話(上)

※今回の記事は途中までです。

続きは後日upします。

 

ご存知の方も多いと思いますが、コロナウイルスの影響で

様々なオンラインイベントが開催されていますね。

私(=このブログの管理者)も、自宅で過ごすことが多いため、

読書会や雑談的なイベントへ顔を出すようになりました。

 

哲学カフェもその例外ではなく、

全国の哲学カフェがオンラインへ乗り出しています。

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今まで参加することのできなかった地方の哲学カフェへ

参加することが可能な状態です。

私も、東京の学生さん主体の哲学カフェ、

九州の哲学カフェ、

以前参加していた関西の哲学対話、

全国の哲学カフェ主催者の集いetc.へ参加しております。

 

もちろん、コロナで本当に苦労していらっしゃる方もおり、

諸手を挙げて喜ぶには微妙な状況です。

しかし逆に、人と人との接触が断たれている、

しかも、家の中に押し込められてそれが苦痛だと言う方もいらっしゃるため、

「対話の場を開く」ことの意義がいつも以上に高まっている、と言えるかも。

 

そんな時に私は、自分が主催している哲学カフェを離れて

「わぁ~参加者として対話へ参加するの楽しぃ~~~」

などと他の哲学カフェへ入り浸っていたわけですが…。

 

とりあえず、今まで参加させて頂いた哲学カフェの感想などを

書いてみようかと思います。

今回は、東京の某大学の方々が主体となって運営されている

哲学カフェについてです。

(ちょっと勝手な忖度をし、大学名は伏せておきます)

 

興味深かったのは、

「同年代の人たちと意見交換できる場を作りたい」と言う趣旨の下、

この哲学カフェで参加可能なのが「学生」であったこと。

 

『考えるとはどういうことか』と言う本によれば、

参加者の方の多様性を確保することは、哲学対話において重要であるそう。

その理由は、多様性が確保されるほど、

価値観など‘根本的な事柄’が問われることになるからだそうです。

(似通った者同士で集まっても、

些末な違いしか問題とならない、とのこと)

 

その視点(≒多様性の確保)で見ると、

参加者をある属性に限定すること(一方の性別だけ、若者だけetc.)は、

あまり望ましくはない、と考えられます。

属性が似ていれば、ある程度考え方も似通ってくる可能性が高いので。

 

ところが…上記の学生主体の哲学対話では、

予想以上に‘しっかりとした’対話が行われている、と感じました。

少なくとも、単に「わかる、わかる~」と共感しあうような話し合いではなく、

「え、そうかなぁ」という異論が出てきて、

その対立点=論点について話し合うような対話となっていたのです。

 

なぜ、そのような対話になっていたのか?

以下、簡単ですが、

その学生さん主体の哲学対話に参加した私なりのレポートです。

 

参加者の方々は、ほぼ知り合い同士で、

主催者さんと同じ大学の人達だったようです。

ゆる~い感じで始まりました。

Zoomでの開催だったので、自宅からと思しき人が多く、

皆さんリラックスムード。

初対面の方同士が一堂に会することの多い「いわて哲学カフェ」とは

違ってある意味新鮮。

 

まず最初に、自己紹介代わりに、参加者の人がそれぞれ

「好きな、あるいは最近読んで面白かった本や漫画」を挙げていきました。

(ちなみに、私が挙げたのは千葉雅也さんの『勉強の哲学』)

 

次に、30分ぐらいかけて「問い出し」をしました。

20個ぐらいの問いが次々と提出されたのですが、

主なものは、以下の通り。

「センスとは何か」

「知らなくてもいいことって何?」

「なぜ音楽は人の心を動かすのか」

「褒められると嬉しいのはなぜか?」

「漫画の感動的な場面で風が吹くのはなぜか」

「『意味があること』とは何か」etc.

 

上記の問いの中から、多数決で話し合いたい問いを決めていきます。

その日選ばれたのは、「イタイってどういうことか」でした。

「膝を擦りむいて痛い」ではなく、

「あいつ、イタイよね…」の方です。

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早速対話スタート。

(続きは、後日upします。)

「ことばにできないこと」はことばにできている?ーーー第7回「いわて哲学カフェ」のレポート

今回のいわて哲学カフェ(2020/03/22)は、「特別版」でした。

第一回目でも進行役を務めて頂いた森本誠一さん(※1)にお越し頂いての

開催だったためです。

 

経験を重ねた進行役の方をお招きしての「哲学対話」。

そのため、もっと大々的に宣伝したかったのですが、

周知の通り生憎の状況となってしまい…。

‘それなり’の宣伝に控えていました。

正直、5,6人位集まって頂ければ御の字かな、と。

 

ところが、予想に反して当日の申し込みが重なりました。

蓋を開けてみれば森本さん、受付等色々ご協力頂いた方、そして私を含むと

総勢16名(!)での哲学対話となりました。

(内、初参加は7名)

 

以下、第7回いわて哲学カフェの簡単なレポートです。

 

場所は、岩手県公会堂の11号室でした。

その日たまたま別の部屋でコンサートが開かれていたようでした。

そのため、時折「あなたの愛が~~~~」等の歌声が響いてくるという

変わった趣向の(?)哲学カフェとなりました。

 

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今回のテーマは「ことばにできないこととは?」。

‘3月に岩手で行う哲学対話’、ということで

私は震災に関連するテーマを取り扱ってみたいと考えていました。

ですが森本さんのご意見もあり

(運営側が対話を方向づけるべきではないことや、

震災を正面から取り上げることの危うさ等)

震災の話も出てくる‘可能性のある‘テーマとして、

上記を取り上げる事となりました。

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さて、どんな対話が行われたのか?

普段のレポートの中では、

「対話の中の論点について、主なものを列挙する」ということをしています。

ですが今回、部屋の換気等で私(=主催者兼ブログの管理者)がちょこまかと

動き回っており、対話の流れが追えていない部分が多々あります。

そこで、手元のメモに残っている事柄と、

そこから考えたことを少しだけ書いておきます。

(例のごとくですが、メモがあったとしても

以下は私の記憶と解釈に基づきます。

他の参加者の方とはまた違うはず)

 

まず、テーマに関して

「そもそもことばとは何か?」という問いが提示されました。

私は「文法などのルールによって使用される記号の一つ」だと

思っていたのですが、「ダンスなど、あらゆる表現行為」を

「ことば」として捉える方も。

 

「表現の手段」としては、ことばだけでなく「間」や「表情」なども

取り上げられます。

そういったあらゆる表現手段を「ことば」に含めるとすれば、

表現できないことはないのではないか、と言う意見もありました。

 

さらに、「『ことばにできないこと』と言うけれど、

そんな風に表現した時点で、ことばになっているのでは?」

というご意見も。

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(写真の会場がToastになってますが、実際は公会堂です。) 

 

この問いに関する、私の意見は以下。

「上記の意見も理解できる。

確かに、 『ことばにできない』などとことばにしている時点で、

『ことばになっている』と言うこともできる。

だけど問題は、 ‘それでもなぜ’『ことばにできない』などと

口にする事があるのか、ということでは?」

つまり、

「ことばにできない」と言う時、

発話者は‘何が’できないと思っているのか?

 

これらの疑問に関して、私の気になった意見が以下。

「デリケートなことだから、言葉にしたくない。

言葉にしてしまえば、何かが損なわれている気がする」という概要のもの。

 

「ことばにできない」という時、

話者が望んでいるのは、 この何かを‘損なわずに’済む事。

では、その「何か」とは何でしょうか。

単に「表現したいこと」か?

だけど、それならできるだけおおざっぱな表現をしておけば事足りるはず。

雑な例ですが、

大切な誰かを亡くした方がいたとして、

辛さ、悲しさ、残された事への憤りetc.があったとします。

その感情を表現したければ、

「色々と複雑な気持ち」とでも言っておけば、

‘取りこぼし’はない。

だけど、そんな風に言ってしまう事によってこそ、

「何かが損なわれる」感覚が生じるのではないでしょうか。

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単に、「表現したいこと」を‘包含している’ことばでは駄目。

「表現したいこと」に‘ふさわしい’ことばを見つけなければならない。

そしてそれができた時、「何かが損なわれる」感覚を覚えずに済む。

こうなると、何だかことばを用いる事は、

単なる情報処理‘以上の’意味を持っている気がしてくる。

 

では、「表現したいこと」に対して‘ことばがふさわしい’とはどういう事か?

 

…混乱してきたので、ここまでにします。

ただしこんな風に、哲学カフェの中で出会った言葉を持ち帰り、

対話が終わった後も折に触れて考える事が大事であると、

物の本には書かれています。

 

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それ以外にも、個人的に気になったご意見はいろいろあります。

その中で、テーマに関するものではないものの、

「哲学カフェ」のあり方に関し少し気になったご意見が、以下。

「この場にいると、‘正しい’ことを言わなければいけない気がする。

間違ったこと言っちゃいけないのでは、と思う」

 

ここで言う「正しい」とは何なのか?

論理的整合性?

意見の‘真面目さ’?

あるいは、 ‘他の人に批判されたり笑われたりしないような’事?

 

そして、「正しいことを言わなきゃ」というプレッシャーは、

「哲学カフェ」の場でのみ感じることなのでしょうか?

それとも‘見かけ上’似たような場所、

例えば、学級会・PTAの会議・町内会etc.でも感じるものなのでしょうか?

後者なら、それはなぜか?

そのプレッシャーの源は一体なんなのでしょうか…?

 

ともあれ私としては、ルールの範囲内において、

出来る限り自由に発言して頂きたいと思っております。

たとえそれが哲学カフェの場‘以外では’正しくない事であったとしても、

参加者の方が真剣に考えた事や、

あるいは、ご自身の‘実感として’正しいと思える事については

遠慮なく述べて頂きたいです。

そして、 ‘それができること’が

「哲学カフェ」を単なるおしゃべりとはまた‘別の’場にしていく要因の一つでは…

と考えております。

 

今回の哲学カフェの最後でもお話ししましたが、

森本さんのように哲学を専門に修めた方に来て頂ける機会は貴重です。

ですが、それが「哲学カフェ」の本質か、と言うとそうではないはず。

あくまでも、「参加者の皆さんで対話すること」こそが重要、だと

少なくとも私は考えております。

今後も「いわて哲学カフェ」を出来る限り継続してまいりますので、

ご関心のある方は、機会があれば是非。

 

それでは、ご参加頂いた方、

最後までこの記事をお読み頂いた方、

有難うございました。

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※1 ご専門は哲学、倫理学。大学等で非常勤講師をしていらっしゃいます。

詳しくは☞森本誠一のホームページ

 

写真と漫画と男女の出会い―――哲学カフェの可能性について

以前も同様の記事を書いたのですが、 

philosophycafeinmorioka.hatenablog.com

また別の形の哲学カフェを発見したので、

この記事でご紹介しようと思います。

哲学的な良し悪しはさておき、どれも面白そう。

 

 

1、写真・絵画鑑賞と哲学カフェ

 

絵や写真を見ながら話し合う、と言う哲学カフェ。

アートに関心がある方にはいいかもしれない。f:id:Philosophycafeinmorioka:20200321195750j:plain

何の本で読んだか忘れたのですが

写真と言うのは、単に形あるものを写し取るものではなく、

世界が写真家に‘どう見えているか’を表現したものだそうです。

つまり、自分とは‘別の世界の見え方’を知るためのもの。

 

哲学カフェでも、他の参加者の意見(≒世界)に触れることで、

自分の意見を見つめ直し、より自分の世界を広げていく

ということが行われる(はず)ですので、

両者の親和性はあるはず。

絵画も然り。

 

2、小説・絵本・漫画・アニメと哲学カフェ

 

以前の記事で、哲学に関する書籍を取り上げて行う哲学カフェ、

というものはご紹介しましたが、

その他にも、小説や絵本、漫画やアニメなどを題材として、

それについて話し合う哲学カフェ、というものがあるそうです。

 

Web上で私が目にした、小説を題材とした哲学カフェでは、

別に小説を読んで来なくてもいいらしいのですが、

それでも大丈夫なものなのか…?

 

3、ことわざ等の意味を考える。

 

例えば、フランスには

「善は縁を断ち切る(Le bien tue le lien.)」という警句があるそうですが、

こういった表現を取り上げて、それをテーマに話し合うもの。

 

日本だとどういったことわざでできるだろう?

「善に強い者は悪にも強い」

「愛は憎悪の始め」

とかならいいのでは。

どうせならもう少し見慣れた諺がよいかもしれませんが。

 

4 、婚活パーティーと哲学カフェ

 

これ見つけた時は本当にびっくりした… 。

実際に行われているそうです。

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婚活というと、年齢とか職業、趣味や家族構成などの条件を

気にするものだけれど、

哲学対話をすることで、

その人の内面の深いところが自然に出てくるので、ためになるそう。

 

改めて考えてみると、

日常会話でも表面的なことしか話さない、ということはよくあるのに、

婚活パーティーという‘出来るだけ自分を良く見せたい場’で、

相手の考え方や価値観などを知るのはなかなか難しそう。

それを考えれば、哲学カフェを婚活パーティーへ導入、というのは、

アリと言えば、アリか。

 

以上のように、「哲学カフェ」何だか色々あります。

「哲学カフェ」という名称じゃなくても、その実態は哲学カフェだったり。

こんな風に色々あると、「いわて哲学カフェ」でも色々試してみたくなります。

実際にやるとなると、難しい点もあるかもしれませんが。

 

以上です。

最後までお読み頂いた方、ありがとうございました。

 

参考文献

 

梶谷真司(2018).考えるとはどういうことか――

 0歳から100歳までの哲学入門.幻冬舎

松川絵里・樫本直樹・寺田俊郎・三浦隆宏・高橋綾・桑原英之・井尻貴子・

 中川雅道・藤本啓子・西村高宏・辻明典・本間直樹・西川勝(2014).シリーズ臨床哲 学 第2巻 哲学カフェのつくりかた.鷲田清一(監修).大阪大学出版会